つれづれなるままにワン・オン・ワン
Tribute Vlog for One On One Japan Tour 2017
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グッズ
3/27 Days of Songs - Capitol 75th (ビートルズTシャツ)
3月下旬 ホットウィール HW ポップカルチャー THE BEATLES

イベント
3/29 ロンドン芸術大学 入学審査
3/29 13:00~15:00 パティ・ボイド来日記念トークショー 1部 アフタヌーン トークショー
3/29 17:00~19:00 パティ・ボイド来日記念トークショー 2部 レイトアフタヌーン トークショー
3/29~4/28 パティ・ボイド写真展 George, Eric & Me ~パティが見たあの頃~ モノクローム版
3/29~5/14 パティ・ボイド写真展 George, Eric & Me ~パティが見たあの頃~
3/31まで It's a Sony 展
4/9 12:30~15:30 ビートルズ・アナログ爆音鑑賞会 Vol.7 ポール・マッカートニー特集2 (1980年代から現在まで)
4/11 ポール・マッカートニー&ウイングス ロックショウ 一夜限りのライヴ絶響上映@Zepp東阪
4/14 19:30 Beatlesongs 213 ~ ビートルズの曲はここが面白い! ビートルズ・イベント パート1 全213曲を楽しむ
4/21 19:30 サージェント・ペパーズ発売50周年記念トーク・イベント (2) 音の世界
4/22 レコード・ストア・デイ
5/10まで Bailey's Icons
5/25~6/16 サージェント・ペパーズ発売50周年記念イベント Sgt Peppers At 50 英国
5/27 19:00 サージェント・ペパーズ発売50周年記念トーク・イベント (3) ジョージ・マーティンの世界
6/16 19:30 サージェント・ペパーズ発売50周年記念トーク・イベント (4) スタジオ・レコーディングの世界
7/15 19:00 サージェント・ペパーズ発売50周年記念トーク・イベント (5) ライブの世界
8/20 19:00 サージェント・ペパーズ発売50周年記念トーク・イベント (6) メンバーを取り巻く世界

本 , 雑誌 , ムック
3/29 MUSIC LIFE 1970年代ビートルズ物語
4/6 ビートルズを呼んだ男
4/12 僕を作った66枚のレコード
4/12 ビートルズの英語タイトルをめぐる213の冒険 ~〈Please Please Me〉の本当の意味知っていますか?
4/12 POWERS OF TWO 二人で一人の天才
4/13 真実のビートルズ・サウンド完全版 全213曲の音楽的マジックを解明
4/14 CROSSBEAT Special Edition ポール・マッカートニー ソロ・ワークス
4/18 ビートル・アローン
4/18 ビートルズ・ストーリー Vol.8 1969
4/22 「ビートルズと日本」ブラウン管の記録~出演から関連番組まで、日本のテレビが伝えたビートルズのすべて
4/27 サージェント・ペパーズ・シンドローム ロックの時代 1967-1968
5/22 ザ・ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』完全ガイド
9/21 絵本「Imagine」(仮)

TV , ラジオ
4/2 6:14~6:25 サエキけんぞうの素晴らしき80's (ポール・マッカートニー特集) NHKラジオ第1
4/2 21:00~21:30 Dr.竹迫のミュージック・クリニック ポール・マッカートニー Flowers In The Dirt 特集 Part 1 FMゲンキ
4/9 21:00~21:30 Dr.竹迫のミュージック・クリニック ポール・マッカートニー Flowers In The Dirt 特集 Part 2 FMゲンキ
4/20 22:30~23:00 藤原さくらが選ぶ! ベスト・オブ・ポール・マッカートニー MTV Japan
4/25 21:00~22:30 ポール・マッカートニー VideoSelects MTV Japan
4/28 19:30~20:00 藤原さくらが選ぶ! ベスト・オブ・ポール・マッカートニー MTV Japan
4/30 22:00~23:30 ポール・マッカートニー VideoSelects MTV Japan

CD
4/7 マイク・マクギア Woman : Remastered Edition
4/17 ローレンス・ジューバ プレイズ・ザ・ビートルズ第3集: LJ Can't Stop Playing The Beatles!
5/5 ブラック・リップス Satan's Graffiti Or God's Art? (ヨーコ・オノ、ショーン・レノン参加) US盤
6月? ビートルズ サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド発売50周年盤
前半 ヨーコ・オノ フライ
前半 ヨーコ・オノ 無限の大宇宙
前半 ヨーコ・オノ 空間の感触
前半 ヨーコ・オノ ストーリー
7月以降 ポール・マッカートニー 全カタログ再発
後半 ヨーコ・オノ シーズン・オブ・グラス
後半 ヨーコ・オノ イッツ・オールライト
後半 ヨーコ・オノ スターピース
後半 ヨーコ・オノ 未完成作品第3番 ウェディング・アルバム
年内? リンゴ・スター ニューアルバム (ポール・マッカートニー参加)
未定 ポール・マッカートニー フラワーズ・イン・ザ・ダート [デラックス・エディション] 3CD+DVD

映画
4/8~ マイ ビューティフル ガーデン
4/11 ポール・マッカートニー&ウイングス ロックショウ 一夜限りのライヴ絶響上映@Zepp東阪
4/28 ハード・デイズ・ナイト Zeppなんば大阪
5/1 ハード・デイズ・ナイト Zepp DiverCity
5/26 ポール・マッカートニー パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊
年内? ポール・マッカートニー High In The Clouds
年内? A Life In The Day

アナログ盤
4/22 ポール・マッカートニー レコード・ストア・デイ限定 3曲入りカセットテープ
前半 ヨーコ・オノ フライ
前半 ヨーコ・オノ 無限の大宇宙
前半 ヨーコ・オノ 空間の感触
前半 ヨーコ・オノ ストーリー
7月以降 ポール・マッカートニー 全カタログ再発
後半 ヨーコ・オノ シーズン・オブ・グラス
後半 ヨーコ・オノ イッツ・オールライト
後半 ヨーコ・オノ スターピース
後半 ヨーコ・オノ 未完成作品第3番 ウェディング・アルバム

LIVE
4/25 ポール・マッカートニー 日本 武道館
4/27 ポール・マッカートニー 日本 東京ドーム
4/29 ポール・マッカートニー 日本 東京ドーム
4/30 ポール・マッカートニー 日本 東京ドーム

ユニクロ UT特集 - キャピトル 75th

          

          


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wingsfan

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ポール・マッカートニー&ウイングス
のトリビュート LIVE フェスティバル
WINGSFAN をプロデュースしてい
ます。このブログは私が日常生活
の中で興味を持ったことやウイン
グスや WINGSFAN などに関する
情報などを毎日掲載しています。 

wingsfan@wingsfan.net


チャック・ベリー、正式な死因が確定
Chuck Berry

18日(現地時間)に亡くなったチャック・ベリーの死因について自然死であると報じられている。TMZ.com によれば、チャック・ベリーの死因は「自然死」とのことで、検視は行われないという。チャック・ベリーの医師は死亡証明書に書名したと報じられている。チャック・ベリーはロックンロールにおける先駆者と見なされており、ファースト・シングルの「Maybellene」はロックンロールのヒット曲として最初のものの一つとなっている。チャック・ベリーは1984年にグラミー賞の特別功労賞を受賞しており、1986年にロックの殿堂入りを果たしている。

Thanks! NME Japan

ポール・マッカートニー、チャック・ベリーを追悼
Chuck Berry & Paul McCartney

ポール・マッカートニーが18日(現地時間)に亡くなったロックンロールの父、チャック・ベリーへ追悼の言葉を寄せた。「悲しいことに、週末、チャック・ベリーが亡くなった。彼は、ロックンロールの最も偉大な詩人の1人だった。その死は惜しまれるが、彼はロックンロールを愛する全ての人々の記憶に留まるだろう。「Sweet Little Sixteen」の素晴らしいギター・イントロを聴いた瞬間、僕らは偉大なチャック・ベリーのファンになった。「Johnny B. Goode」「Maybellene」――彼のストーリーは歌詞というより詩のようだった。僕らにとって、彼はノーマルであると同時に風変りな音楽を作るマジシャンだった。僕らは彼から多くのことを学び、それは僕らをロックンロール・ミュージックのドリーム・ワールドへと導いた。チャックは世界中で最も偉大なロックンロールのレジェンドだった。永遠にそうだ。僕は、彼の故郷セントルイスでプレイした時、光栄にも彼に会うことができた。この思い出はこれからずっと大切にしていく。リバプールで育った僕ら若者にとって彼がどれだけの意味を持つか要約するのは不可能だが、試してみる。

Chuck Berry sadly passed away over the weekend. He was one of rock 'n' roll's greatest poets. He will be missed but remembered by everyone who ever loved rock 'n' roll.

From the first minute we heard the great guitar intro to ‘Sweet Little Sixteen’ we became fans of the great Chuck Berry. His stories were more like poems than lyrics – the likes of ‘Johnny B Goode’ or ‘Maybellene’. To us he was a magician making music that was exotic yet normal at the same time. We learnt so many things from him which led us into a dream world of rock ‘n’ roll music.

Chuck was and is forever more one of rock ‘n’ roll’s greatest legends all over the world. I was privileged to meet him in his home town St Louis when I played there on tour and it’s a memory I will cherish forever. It’s not really possible to sum up what he meant to all us young guys growing up in Liverpool but I can give it a try.

Long live rock ‘n’ roll!

Love you Chuck.
Paul

チャック・ベリーは自宅で意識を失い、救命措置が施されたが回復することなく、その場で死亡が確認された。TMZ.com によると、自然死で、検視は行なわれないという。

Thanks! Ako Suzuki

チャック・ベリー逝去
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18日(現地時間)、ロックンロールの創始者の一人、チャック・ベリーが死去したと米ミズーリ州セントチャールズ郡の警察が明らかにした。享年90歳。郡警察は18日午後に通報を受けて自宅に駆け付け、倒れているチャック・ベリーを見つけ、死亡を確認した。郡警察はフェイスブックで「残念ながら伝説のミュージシャン、チャック・ベリーでより広く知られる、チャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー氏の死亡を確認した」と発表した。現時点で死因は不明。1926年 米セントルイスに産まれたチャック・ベリーは1953年にサー・ジョン・トリオのギタリストとして活動を始め、1955年にシカゴにてヒルビリー・ソング「Ida Red」をチェス・レコードにて録音。チェス・レコードとソロ契約したチャック・ベリーは同曲を「メイベリーン」というタイトルに変えてデビュー。全米5位のヒットとなった。片足を上げて腰を落とし、アヒルのように動き回る演奏スタイル「ダックウォーク」という独特のパフォーマンスを披露したチャック・ベリーは、その後、「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」「ロックンロール・ミュージック」「スウィート・リトル・シックスティーン」「ジョニー・B.グッド」などをヒットさせ、後のエルヴィス・プレスリー、ビートルズ、ローリング・ストーンズらに多大な影響を与えた。ジョン・レノンは「ロックに別名を与えるなら”チャック・ベリー”」と敬意を表している。従来のブルースやリズム&ブルースにエレキギターで印象的なフレーズを繰り返す「リフ」を取り入れたチャック・ベリーは、後のロックのひな型を作り、不良性のある歌詞は反体制の象徴というロックのイメージに繋がった。1981年に初来日、2002年3月には東京国際フォーラムでジェームス・ブラウンとジョイントコンサートを開催し、アンコールで「小便がしたい」と中座して笑いを誘うなど自由な人柄で親しまれた。黒人ゆえ幼少期から迫害を受けた影響からか、他人を信用しない変わり者としても知られており、契約は必ず現金払いを求め共演者も選んだ。1987年の映画「ヘイル・ヘイル・ロックンロール」ではキース・リチャーズとの演奏中、何度も難癖をつける様子が見られる。昨秋には38年ぶりとなるニュー・アルバム「Chuck」を2017年にリリースすると発表し、話題になっていた。チャック・ベリー訃報をうけ、世界中の多くの音楽家が追悼の意を示しており、ローリング・ストーンズ、ブルース・スプリングスティーンらなど多くのアーティストがチャック・ベリーの逝去を惜しんでいる。リンゴ・スターはツイッターで「RIP. そしてピース&ラブ チャック・ベリー ミスター・ロックンロール・ミュージック」とつぶやき、チャック・ベリーの名曲「Rock And Roll Music」の歌詞の一節「Just let me hear some of that rock 'n' roll music any old way you use it I am playing I'm talking about you」を投稿している。 心より御冥福をお祈りいたします。


R.I.P. Chuck Berry

キス・オン・ザ・ボトムを手がけたトミー・リピューマが死去
Tommy LiPuma & Paul McCartney

13日(現地時間)、ポール・マッカートニーの「キス・オン・ザ・ボトム」など数々の名作を手がけた、音楽プロデューサー/ヴァーヴ・ミュージック・グループ会長のトミー・リピューマが米ニューヨークで亡くなった。享年80歳。トミーは以前より病気を患っていた。高校時代はサックスを吹き、理容師になる事が夢だったトミー・リピューマが音楽業界に足を踏み入れるキッカケはクリーブランドからロサンゼルスに移った頃。リバティー・レコードのラジオ担当宣伝マンから始まる。その後、A&Mレコードで制作マンとなり、1966年に大ヒットしたサンドパイパーズの「グアンタナメラ」をプロデュースした。ブルー・サム・レコードではフィル・アップチャーチやベン・シドランといったジャズ畑のアーティストを手がけ、マイルス・デイヴィスやイエロージャケッツ、ジョージ・ベンソン、エヴリシング・バット・ザ・ガール、ダイアナ・クラール等、数多くのアーティストをプロデュースし、ジョージ・ベンソンの「ブリージン」やナタリー・コールの「アンフォーゲッタブル」では全米1位を獲得。ジョージ・ベンソンの「マスカレード」でグラミー賞の最優秀レコード賞を、「アンフォーゲッタブル」で最優秀アルバム賞を受賞している。又、レオン・ラッセル最後のアルバム「Life Journey」やポール・マッカートニーの「キス・オン・ザ・ボトム」も手がけている。最後の作品はダイアナ・クラールの「ターン・アップ・ザ・クワイエット」で、米国では5月5日に発売される。トミー・リピューマの逝去にポール・マッカートニーは 公式サイト で下記のコメントを発表している。 心より御冥福をお祈りいたします。

I was very saddened to hear that my dear friend, Tommy LiPuma passed away. We had worked together on my album 'Kisses On The Bottom' which he produced. He was a fun loving, thoughtful guy with a vast knowledge of music. He had been a performer in his youth before he took up production and was always happy to sit with us in the studio whilst I and my fellow musicians worked on a track.

Diana Krall was a very good friend of his and working together with her and Tommy on the album was a special experience. We would often go out to dinner together and on these occasions he was sure to produce a bottle of fine red wine from his briefcase to accompany the meal. He was an extremely generous man who loved his dear wife Gill (for some reason I called her Gail!!) very dearly.

I will always have very fond memories of our time together and be proud to share his love with his family and many friends.

R.I.P. Tommy LiPuma

ジョージ・マーティン一周忌
George Martin & Paul McCartney

本日は”5人目のビートルズ”と言われた英国の音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンの命日。1950年に英EMIに入社したジョージ・マーティンは1962年からビートルズと関わるようになり、数々のヒット曲のプロデュースを手がけた。ビートルズ解散後もポール・マッカートニー&ウイングスによる映画「007/死ぬのは奴らだ」(1973年)のサウンドトラックやポール・マッカートニーのアルバム「タッグ・オブ・ウォー」(1982年)などをプロデュース。他にもジェフ・ベック、チープ・トリック、エラ・フィッツジェラルド、スタン・ゲッツ、ケニー・ロジャース、ピーター・ガブリエル、スティング、カーリー・サイモン、ケイト・ブッシュなど、錚々たるメンバーのプロデュースをおこない、その手腕を発揮してきた。1996年にはナイトの爵位が授与され、2002年にはエリザベス女王即位50周年コンサートの総監督を務めるなど、英国音楽界の巨匠として活躍を続けたマーティンだったが、1年前の2016年3月8日、90歳でこの世を去っている。

Thanks! Billboard Japan

ミホノブルボン死す 老衰、28歳
ミホノブルボン

23日、1992年の皐月賞、ダービーを無敗で制し、菊花賞2着の準三冠馬ミホノブルボンが22日に老衰のため死んでいたことが分かった。享年28歳。人間なら100歳に相当する長寿であった。2012年の種牡馬引退後は北海道日高町のスマイルファームで余生を送っていたが、21日朝から寝たきりの状態となり、22日18:00すぎに息を引き取った。同ファームの中村広樹代表は「ひと冬ごとに体がさみしくなっていきましたから。ファンからいただく贈り物も多すぎるくらいで、本当に愛された馬でした」と残念がった。1991年9月に中京競馬場でデビュー。当時、最新施設だった坂路で4本追いを消化するなど、戸山為夫師の元で徹底的に鍛え上げられ、「坂路の申し子」と呼ばれた。圧倒的なスピードを武器に快進撃を続け、朝日杯3歳S、皐月賞、ダービーなど、無傷の7連勝を達成。ダービーは4馬身差の逃げ切りだった。秋の菊花賞でライスシャワーの2着に敗れて惜しくも三冠制覇は逃したが、1992年の年度代表馬にも選出された。その後は骨折など、度重なる脚部不安に悩まされ、1994年に8戦7勝(うちG1 3勝)で引退。その後は種牡馬入りし、JRA重賞勝ち馬を送り出すことはできなかったが、日本ダービー出走馬を送り出すなど活躍した。

私が初めて買った馬券はミホノブルボンの菊花賞でした。今でも持っています。引退式も行きました。スクラップブックをいくつも作り、ビデオ、DVD、カセットテープなど全部持ってるくらい大好きな馬&戸山厩舎でした。現役当時発売されたブルボンの一番大きなぬいぐるみは今でもウチに居ます。私にとって史上最強馬はルドルフでもブライアンでもトップガンでもエルコンドルパサーでもグラスワンダーでもディープでもオルフェーヴルでもなく、ミホノブルボンです。ブルボン、ありがとう。心より御冥福をお祈りします。

R.I.P. ミホノブルボン

石坂敬一さんお別れの会 弔辞全文
2016年12月31日に虚血性心不全のため永眠した、元ユニバーサルミュージック/ワーナーミュージック会長、現オリコン社外取締役の石坂敬一(享年71歳)の「お別れの会」が8日、東京・青山葬儀所で行われ、親交のあった音楽関係者など約2300人が参列し、別れを惜しんだ。湯川れい子、宮澤一誠、長渕剛が弔辞を読んだ。

湯川れい子
湯川れい子

石坂さん、今日は本当に厳寒の2月だというのにいいお天気になりましたね。昨夜は今日のお別れに際して何のお話をしようかなと思いながらウィキペディアを眺めてました。敬一さん知ってた? あなたのウィキの画像って1万4000点以上もあるのよ。ロックスターでも歌手でもないのに。そう正にあなたはレコード業界のレジェンド、スーパースターだったんですね。さっき、富澤一誠さんともお話してたんだけど、いなくなっても、存在あるのね。大学を卒業して、東芝音楽工業に入ってらしたのが1968年。それからすぐにビートルズの担当をして、お会いしましたね。でも、今も強烈な印象として残ってるのは70年代に入ってからの頃。さっきTレックスがかかりましたが、今の業界の語りぐさになっている、あのピンク・フロイドのアルバム「アトム・ハート・マザー」に日本語で「原子心母」というタイトルをつけたこと。その後ローリング・ストーンズのアルバム「サム ガールズ」を「女たち」というタイトルにしたり。当時はサイケデリック・ロックから後のプログレッシブ・ロックなんていうのが出てきた頃で、ビートルズが解散して、ベトナム戦争が終わって、ロックは反対者の音楽だなんて思っていたら、化粧した男たちが出てきたり。なにやら有り難そうだけど、よく分からない。そんなときにあなたはロックに、手触り感と見える感、イメージを自分の身体と目で見せてくれた最初の、そしておそらくをもって最後のミュージックマンでした。お酒が入らないとあまり喋らない人だったけれど、髪をヒッピーのように長く伸ばして、厚底でヒールの高いロンドンブーツを履いていたのは有名な話です。指は常にピンクとか赤のマニキュアをつけて、昼間はその格好でラジオ曲を訪ねてくるとレコードを見せながらどこか少年のようなあどけなさの残る目でじーっと見つめて、「ね、これいいんですよ、いいんですよ」って。今の石坂さんを知ってる人たちと話すと「石坂さんの目が怖かった」、「いつも据わった目をしていて、あの目でギロっと睨まれるとすくみ上がった」という人がいますけど、でもウィキの写真を見ても昔も今も一生懸命な、一途な目をしていたのよね。そして夜は麻布にあった団長のお店、スピークロウであなたはワーナーの折田さんや今野雄二さんや、色んな人と午前1時や2時まで飲んで、それからさっさと遠い国立の家に帰って翌日のラジオの用意や原稿を書いている私に夜中の2時3時、必ず電話をくれて。熱く熱くロックや夢やアーティストの話をしていましたね。いい迷惑だったけどかわいかった。それでその石坂さんが突然恋をして、結婚することになって、日本にビートルズを呼んだ、私と石坂さんの両方にとっての憧れのヒーローだったキョードー東京のファウンダー 永島達司さんのご媒酌で結婚式を挙げたあと、「新婚旅行に行っても花嫁さんと2人で何を話していいか分からないから後ろに付き添いできてください」って言われて。まだ私も新婚2年目くらいだったから、一緒にハワイに行ったのよね。今日式場の外にアロハシャツを着たあなたの写真がありました。あの時の敬一さん、美しい奥様と2人で並んでずっと1日幸せそうに海を眺めていたね。本当に幸せそうでした。でも、敬一さんが本当にすごかったのは単に洋楽好きのボンボンだったということではなくて、ビジネスマンとしてのお父様、石坂範一郎さんを心から尊敬していらして、常に事業の効率、社員を食べさせるということ、ひいては日本という国を育てていくという夢に神経を使って寝ても覚めてもどんなときも背中に日の丸を背負って戦ってきた人だったんですよね。それも誠実に、ひたすら誠実に。そのことは忌野清志郎さんの原子力発電に対する強烈なメッセージソングが入っていたアルバム「COVERS」を、東芝を親会社とするEMIから出せないという騒動のときのエピソードに痛いほど輝いていましたけど、もうそれだけで話が長くなってしまうので。その後、約束通り40代で見事にユニバーサルミュージックの社長となったあと、外資系の会社にあって、日本には日本の文化と音楽とビジネスのやり方があると言って、邦楽制作の強化に力を注ぎ、レーベルを超えて邦楽アーティストの売り出しに手を貸し、たくさんのアーティストを育てられたことは、古くは内田裕也さんとクリエイションの話、BOφWYや矢沢永吉さん、長渕剛さんなどエピソードには事欠かないことでしょう。いつもお会いすれば訥々と熱く、音楽の話でした。そしてみんなもっともっと広く深く音楽を聴いてほしいという話でした。特に音楽の作り手や売り手であるミュージックマンには音楽を聴いて愛して、自分の美学、哲学を持って欲しいと。大会社の社長を会長になって、レコード協会の会長なども歴任していらした頃からでしょうね。多分、藤倉さんのような立派な後輩が育って安心したのかもしれないけど、お酒の量がどんどん増えていきましたね。心配していたけど、でも、頭はいつもしっかりしていました。そして一昨年の11月、旭日中綬章をうけられた後のお祝いのパーティでも、昨年6月の私の傘寿のパーティでも、とっても嬉しそうにスピーチをしてくださって、よかった。とにかく、飲むだけ飲んだよね。音楽を愛して、日本をこよなく愛して、音楽と愛する人達に誠心誠意尽くすだけ尽くして、私はきっと悔いの無い人生だったと思っています。あなたはいつも大きな志と夢と魂を持ったロマンティスト。永遠に少年のような侍でした。ほんっとにありがとう。お疲れ様でした。敬一さん、ずっとずっと愛しているよ。魂の弟のような人でした。また、銀河の向こうで会おうね。

富澤一誠
富澤一誠

石坂敬一さん、今日は特別な日です。だから、正直に言わせていただきます。石坂さん、あなたは本当に面倒くさい人でした。しかし、誰もが認める凄い人でした。そして人間味に溢れた照れ屋さんで、何よりも優しい人でもありました。そんな石坂さんが私は大好きでした。石坂さん、いや、ここからはいつものように会長と呼ばせてください。会長、あなた程勝負にこだわった人はいません。もっともあなたの辞書には敗北とか負けるという言葉はありませんから。あなたは勝つために人生の全てをかけて戦ってきたんです。傍から眺めていて、そのことをひしひしと感じました。勝つことはあなたにとってナンバーワンになること、ただそれだけではありません。ナンバーワンになったら、勝ち続けて、ナンバーワンで居続けること。つまりナンバーワンで居続けるオンリーワンの存在になって初めて、あなたの仕事は完結するんです。ミュージックビジネスの絶対君主になるために、あなたはヨーロッパの古代中世の歴史を常に勉強していましたよね。古代ローマの法王を描いた塩野七生さんの全15巻の大作「ローマ人の物語」をはじめとして、あなたの知識は大学教授をも凌駕してしまうほどでした。会長、あなたとはよく飲んで議論しましたよね。夕方5時頃から飲み始めて、深夜3時頃まで、2人だけで面白い話しをするわけでもなく、大学の少数ゼミのようなひたすら勉強会で、こちらが予習をしていかなければ話についてはいけませんでした。正直いってはじめのうちは面倒くさいな、と思いましたが、いつしか私も本気にさせられていました。会長がヨーロッパの古代・中世ならば、私は日本史、とくに戦国時代のことなら多少自信もありましたので、お互いに負けず嫌いだからどちらが先に相手を自分に向けて引っ張り込むのか毎回が真剣勝負でした。十数年前のある日、私は会長に尋ねました。「信長・秀吉・家康、3人の中では誰が好きですか?」。あなたは間髪をを入れずに「信長かな」と仰いました。古い仕組みを破壊して新しい地平を切り拓く。信長はその頃のあなたの理想だったのでしょうね。でも敢えて私は言わせていただきました。「でも、信長だと負けてしまいますよ」「なんで?」あなたの眼光が鋭くなりましたが、「歴史が証明してるじゃないですか」と、私は畳み込みました。信長は本能寺の変で歴史から消え、続く秀吉は天下は獲ったものの、無謀な挑戦・疾病で万年を費やし、結局家康で天下繁栄が実現したのです。たくさんの生き証人で私が得た結論は、生き抜くためにはひとつのタイプではだめだということ。成長するにしたがって、ワカナゴ・ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリなどと名を変える出世魚のように人間もはじめは信長型、それから秀吉型、そして家康型というように臨機応変にタイプを変えていかないと最後まで生き残れないんです。そんな出世人間がこれからのスーパー人間です、会長はそういう人間になるべきです。と私が言いますと、「秀吉の天才軍師、竹中半兵衛みたいなことを言うねぇ」とあなたはまんざらでもない笑顔を見せてくれました。それ以降あなたと私は君主と軍師のごとく、酒を浴びるように飲みながら音楽業界をどうしたらもっと良くできるのか、そこで勝つには何を成すべきかと、熱く語り合いました。結果的に会長あなたは出世魚のごとく、信長から秀吉へ、そして家康へと見事に進化して、音楽業界の頂点に立つことが出来たのです。ユニバーサルミュージック、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEOを歴任し、日本レコード協会の会長にまで上り詰めることができたのです。そのことは民間人としての最高の栄誉とされる旭日中綬章を受賞されたことが物語っています。勉強会は私だけではなく、たくさんの人達にもされていましたよね。私も相当疲れましたけれども、一番疲れたのは実は会長ではないでしょうか。勉強会はとりあえず夏休みにしませんか? 勉強会であなたに鍛えられた私達には石坂イズムが染み込んでいます。石坂イズムがDNAに組み込まれているかぎり、会長、あなたは永遠に不滅です。これからも私達がさぼらないように叱咤激励してくれる面倒くさい人でいてください。夏休みが終わったらまた朝まで飲みましょう。それまでに私もしっかりと予習をしておきますから。

長渕 剛
長渕 剛

石坂さん、こんなところで、お別れの会で弔辞を読むなんて思ってもなかったです。すごく悲しいんだけど、しっかり読めるかどうか...やりますね。渋谷から霞ヶ関に向かう六本木通り。そこにどーんとそびえる東芝EMI。今から数十年前、石坂さんはそこにいらっしゃいました。当時新人の僕は用がなくても机にいました。ゴージャスなフロントを通り、エレベーターで上がる。「石坂さんまた歌ができたよー!」アポも取らず本部長の石坂さんの部屋を尋ねていきました。「おっ、いらっしゃい」。このまんまのお顔で、真っ直ぐな姿勢でいつも瞳を大きく開いてお話になられていました。ときに微動だにせず、「この前デモテープの3曲目、僕が作ったが、あれはまさしく君の原風景だ。士風の音楽の香りがして実に良い」と言い切り、口をすぐさま無一文に結び、ずっとまた僕を真っ直ぐに見るのです。そして石坂さん独特の間があり、僕はなんて答えていいか分からず。すると、ふいにニコっと笑い、少年のような茶目っ気の顔で「ありがとう、またいつでも来て」。そして決まってキャピトル東急ホテルのコーヒーをいつも飲みに連れて行ってくれました。次に思い出すのは僕が30代。あのとき、3人でしこたま飲んだのを覚えていらっしゃいますか。あの頃の僕のオフィスの半地下で、石坂さんとノンフィクション作家の高山文彦と3人で焼酎を一升空けましたね。飲んでも決して崩れない方だとお聞きしていたので、僕らも気合いを入れて臨みました。そのうちテーマが三島由紀夫は何故自決したのか、という大変重いテーマに変わり、酒も大分まわり、しかし白熱の議論。作家の高山がさらにふっかけるもんだから、ほとんど答え出ずのまんま、僕はお二人の仲裁に入りました。そしたらいきなり石坂さん「相撲とろうよ!」。相撲、何故相撲? 学生時代、相撲部だったんですね。僕は経緯を全くお聞きしていなかったのであのときはびっくりしました。僕達3人は午前4時をまわり、石坂さんはお聞きしてたとおり、全く崩れることなく椅子に深く座り、足を組み、グラスを持ったまま石のように眠っておられました。「石坂さん!石坂さん帰りましょう!」「行こう。実に楽しかったよ」僕の運転手が運転する車でご自宅までお送りしようと「石坂さんこの通りどっちですか」「右」「はい、次は?」「左、ああ間違った右だ」「はい」「あ、その突き当たりを左に曲がりすぐ右」「わかりました。着きましたよ、石坂さん」すると石坂さんが「風景が違うな」。気が付いたら早朝1時間半のロングドライブでした。その次の日石坂さんはポリグラムに就任なさいました。それから1か月もしないときに電話がかかって「ポリグラムにおいで」。流石にそういう訳にいかず。でもとっても嬉しかったんです。そして8年前、僕はユニバーサルレコードに。この僕を支えてくれたのも石坂さん、あなたでした。レコード会社を移籍したその日、ユニバーサルスタッフ総勢で出迎えてくれて、石坂さんはみんなの前でこう仰られたんです。「おかえり」。おかえりって、もうそんな人どこにもいません。レコード会社の重鎮の方々と気さくに話せる場をどこでも作ってくださり、僕はそうやって石坂さんに引っ張っていただいたのだなと、つくづく思います。だからやっぱり、石坂さんがいないと困ります。でもどんなことがあろうとも僕は詞を、曲を書き続けますね。だって約束したんだから。さらに頭を掻きむしり悩み続けていきます。そして歌を正し、歌に呪われ、歌に傷つき、そして歌に喜ぶ。例えば歌が残っていくときに間違っていたか正しかったかを自分でわきまえようと思います。もしも間違ったら、人生の譜面に爪を立てて引きちぎってやります。もしも歌で幸せを感じたならば、その譜面を抱きしめて空を見ます、「石坂さんできたよ!」って。
長年、私たち音楽人のために命ある限り、大切なことを教えて頂いてありがとうございました。たくさんを愛情をありがとうございました。僕たちはさらに歌を書き続けてまいります。どうかどうか見守っていてください。

Thanks! 石坂敬一 , 湯川れい子 , 富澤一誠 , 長渕 剛 , Musicman-NET

石坂敬一さんお別れの会に2300人参列 最期まで歌に囲まれる
石坂敬一

8日、ユニバーサルミュージック元会長でビートルズや矢沢永吉らを手掛け、昨年12月31日に虚血性心不全のため亡くなった音楽ディレクターの石坂敬一さんのお別れの会が日本レコード協会、ユニバーサルミュージック、ワーナーミュージック・ジャパン、オリコンの共同主催で東京・青山葬儀所で営まれた。富士山の裾野に広がる四季をイメージし、バラやスイートピー、トルコキキョウなど計約6000本の花で彩られた祭壇中央には、故人の遺影が入った直径3.2メートルのレコード盤が飾られた。1970年代からレコードビジネスマンとして第一線で活躍した故人のイメージそのままのデザインに、参列した作曲家の平尾昌晃は「今でも信じられない」と突然の別れに戸惑いながらも「あんな祭壇見たことない。石坂さんしかできないし、すごい。この祭壇を見れただけできょう来てよかったとみんな思ってると思う」と話した。石坂敬一は1968年に慶応大学卒業後、東芝音楽工業、のちの東芝EMIに入社。洋楽ディレクターとしてビートルズ、Tレックス、エルトン・ジョン、ピンクフロイドなど名だたるロックスターを担当。1981年からは邦楽本部長としても、松任谷由実、矢沢永吉、BOOWYなどそうそうたるアーティストを育てた。新人時代から目をかけてきた長渕もその一人で、東芝EMI時代のヒット曲を多数手がけるなど長渕と親交が深かった。長渕の名曲「乾杯」と「巡恋歌」を再録音してリリース。1988年にヒットした「乾杯」は初期の「乾杯」(1980年)よりも売れてミリオンヒット。1978年に発売した「巡恋歌」も1992年に再リリースした「巡恋歌 '92」でミリオンと手腕を発揮した。この日は音楽評論家の湯川れい子、宮澤一誠に続いて弔辞を読んだ。祭壇に向かって深々と一礼した長渕は「石坂さん、お別れの会で弔辞を読むなんて思ってもみなかった。すごく悲しいけど、しっかり読めるかどうか...やりますね」と語りかけた上で、石坂さんとのエピソードを披露した。駆け出しのころの思い出や長渕の自宅でノンフィクション作家の高山文彦と朝まで飲み明かしたこと、又、音楽会社の重鎮に気さくに会わせてくれた話などを明かし、故人を偲んだ。「8年前、僕はユニバーサルレコードへ繋いでくれたのも石坂さん、あなたでした。移籍したその日、総勢で出迎えてくれて、こうおっしゃってくれた。「おかえり」。おかえり、もうそんな人どこにもいません」と故人の人柄を思い返した。そして、スタンドマイクを外し、手に持つと、ピアノの生演奏で自身のバラード曲「12色のクレパス」を熱唱。ハーモニカも奏でながら、多くの著名人、業界関係者ら約2300人の弔問客を“長渕ワールド”に引き込んだ。同曲は2012年に死去した二谷英明の告別式でも披露した思い入れのある曲だ。最後に長渕は「長年、私たち音楽人のために、命ある限り大切なことを教えていただきありがとうございました。そしてたくさんの愛情をありがとうございました。さらに歌を書き続けていきます。どうか、どうか見守っていてください。長渕剛」と語り、深々とおじぎをしながら、約13分に及ぶ弔辞を締めくくった。その他、佐野元春、吉川晃司、SUGIZO、AI、青山テルマら多くの音楽人が参列し、斎場では青春時代に影響を受けたエルヴィス・プレスリーをはじめ、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジョンレノンなどディレクターとして関わったヒット曲がBGMとして流されるなど石坂敬一の生涯同様、“音色”の絶えない会となった。

Thanks! ORICON NEWS and more

石坂敬一お別れの会 日本の洋楽をつくった人
石坂敬一

8日にお別れの会が営まれる元音楽ディレクターで、ユニバーサルミュージック会長などを務めた石坂敬一(享年71)。洋楽ディレクターとしてウイングス、ビートルズ、T・レックス、ピンク・フロイドといったビッグバンドを手がけ、日本の洋楽シーンを作り上げた功労者だ。その功績を音楽評論家の富澤一誠がひもといた。石坂敬一は昨年12月31日、虚血性心不全のために死去した。慶応大を卒業後、東芝音楽工業(現在はユニバーサルミュージックに合併)へ入社。その後ユニバーサルミュージックの会長をへて、ワーナーミュージック・ジャパン会長、日本レコード協会会長などを歴任。2015年には旭日中綬章を受章した。その功績は何といっても東芝EMI在籍時、ビートルズのアルバムを米国盤ではなく、英国盤ですべてリリースしたり、邦題を付けて売り出したりと、「日本の洋楽」を定着させたことだろう。ピンク・フロイドのアルバム「原子心母」の邦題も石坂の手による。富澤は「アメリカのものがそのまま入ってきた時代に日本独自のライナーノーツや年表を付けたり、横尾忠則さんを起用してポスターをつくったりして、“日本の洋楽”というジャンルを築き上げた。ネットのない時代にライナーノーツはそのアーティストを知る大切な情報で、日本のミュージシャンも大きな影響を受けている」と指摘する。さらに「1970年代に放送された「リブ・ヤング!」(フジテレビ系)に出演するなど宣伝マンがテレビに出る草分けでもあった。これも新しいスタイルだった。当時はロンドンブーツにベルボトムジーンズ、そしてロン毛というスタイルで新しいカルチャーを教えてくれた」とも。一方で経営者としてもユニバーサルを業界のリーディングカンパニーに引き上げる手腕をみせた。著書「出世の流儀-究極のビジネスマンになる方法」などでサラリーマンにも多大な影響を与えたが、「石坂さんの口癖は「勝たなくちゃ」だった。それでも、つねに「外資だけど、外資じゃねえ」という思いで本国からの防波堤になっていた。まさにジャパニーズ・サムライだった」と富澤は語る。昭和という時代を支えた一人だった。

Thanks! 富澤一誠 , 夕刊フジ

ジョン・ウェットン逝去

ジョン・ウェットンが亡くなった。享年67歳だった。エイジアの公式フェイスブックは訃報について以下のように述べている。「残念ながら、象徴的なシンガーであるジョン・ウェットンが今朝亡くなりました。安らかに、ジョン。1949年6月12日 – 2017年1月31日」。エイジアは3月よりジャーニーとツアーを行うことが発表されているが、ガンとの闘病のためジョン・ウェットンが参加しないことが先日発表されていた。ツアーには元イエスのビリー・シャーウッドが代わりに参加することが発表されている。ツアーがこのまま行われるのかは明らかになっていない。同じくエイジアのメンバーであるカール・パーマーは次のような声明を発表している。「僕の素晴らしい友人にして音楽的コラボレーターであるジョン・ウェットンが亡くなったことで、世界はまた音楽的巨人を失ってしまった。ジョンはやさしい男で、現代のポピュラー・ミュージックにおいても最も語り継がれるメロディーと歌詞を生み出したんだ。ミュージシャンとして彼は勇敢でありながら、革新的だった。そして、その声で、世界中のチャートでエイジアをトップに送り込んでみせた。彼がアルコール中毒に打ち勝ったことは、同じものと闘っている多くの人を刺激することになった。彼と知り合い、彼と仕事をしてきた人にとっては彼の勇気あるガンとの闘いは更なる刺激となったんだ。彼の才能、ユーモア、人にまで広がるようなその笑顔を僕は惜しむことになるだろう。昔からの友人よ、ぜひ、Ride Easy しますように」。 心より御冥福をお祈りいたします。

R.I.P. John Wetton



フラワーズ・イン・ザ・ダート

ポール・マッカートニー at 日本武道館